私が長女から教わったこと
私には、知的障害を抱えた長女がいます。彼女は、普通の子どもよりも、筋力が足りないため、速く走ることができません。運動会の徒競走では、いつも「ビリ」です。
彼女が小学校6年生のとき、運動会の前に足を捻挫してしまった友だちがいました。長女はこの友だちと一緒に走ることになっていたため、私の妻はこう思ったそうです。
「友だちには悪いけど、はじめて、ビリじゃないかもしれない・・・」
運動会を終え、妻はニコニコしながら帰ってきました。私は「ビルじゃなかったんだ」と思ったのですが、「今回もやっぱりビリだった」と言うのです。
今回もビリだったのに、どうして妻は、いつも以上にニコニコ嬉しそうにしていたのでしょうか。
徒競争が始まると、長女は、足を捻挫した友だちのことを何度も振り返り、気にかけながら走ったそうです。自分のこと以上に、友だちが無事にゴールできるか、心配だったのでしょう。
友だちは足をかばうあまり、転んでしまいました。すると長女は走るのをやめ、友だちのもとに駆け寄り、手を引き、起き上がらせ、2人で一緒に走り出したそうです。
2人の姿を見て、生徒も、父兄も、先生も、大きな声援を送りました。
そして、ゴールの前まできたとき、娘は、その子の背中をポンと押して、その子を先にゴールさせた・・・というのです。
この話を聞いたとき、私は気がつきました。人生の目的は、競い合ったり、比べあったり、争ったりすることでも、頑張ったり努力をしたりして「1位になる」ことでもない。人生の目的は「喜ばれる存在になること」である、
私はそのことを長女から教わりました。そして長女は、そのことを教えてくれるために、私たち夫婦の子どもになったのだと思います。
〇全てを受け入れて(感謝して)幸せに生きる、1%の人々
100%の人が、学校教育は社会の中で「戦うこと、抜きんでること、人と争うこと、比べること」を教わります。そして99%の人が「戦うこと、抜きんでること、人と争うこと、比べること」を体現しながら、生きています。
しかし、99%の人が歩んでいる路線とは「違う価値観」で生きている人が、1%ほどいます。
その1%の人たちは、大病をした、大事故にあった、災難・トラブルに巻き込まれた、寝たきりの親の介護を何年も続けた....など、普通の人が、一般的に「苦労」「大変なこと」と言われる出来事に身を置いたことのある人たちです。
この人たちは「普通に生活できることが、どれほど幸せか」を知っています。
普通に歩けること、普通に食べられること、普通に話ができること....、すべてに感謝をして「ありがとうございます」と手を合わせることができるのです。
1%の人たちは、何かを手に入れなくても、幸せを感じることができます。99%の人たちと同じように、「持っていないものを挙げ連ねて、それを手に入れることで幸せになれる」と教えられたにもかかわらず、「つらい経験」をしたことで、「今のままでも幸せである」「自分も相手も、今のままで100点である」ことに気づいたのです。
「欲しいものを50個書いてみてください」と言うと、「別荘が欲しい、結婚相手が欲しい、クルマが欲しい、子どもが欲しい.....」など、50個書ける人がいます。
「では、同じ数だけ、すでに手に入れてるものを書いてください」
と言うと、50個書くことはできません。足りないもの、持っていないもの、手に入れたいものだけを見つめているからです。
「成績を上げるために、もっと勉強をしなければいけない」「今以上の成果を出すために、もっと働かなければいけない」と教えられてきた結果、99%の人は、上昇志向や向上心に常に追い立てられ、安らぎを感じることができません。常に枯渇感に苛まれています。「夢が叶っていないのは、自分の頑張りが足りないからだ」と考え、いつも「足りないもの」を探しています。
しかし、1%の人たちは、自分がすでに、どれだけたくさんのものを手に入れているか、どんなに自分が恵まれているかを知っています。だから、「手に入れているものを書いてください」と言うと、いつでも書くことができるのです。
この1%の人たちは、じつは、「夢も希望もない暮らし」をしています。
私たちが受けてきた学校教育では、夢や希望を持ち、「幸せとは、努力や頑張りの先で手に入れるものだ」と教えられてきました。
けれど、「自分にはあれが足りない、これが欲しい。まだまだ、もっともっと」と言い続けるかぎり、いつまでも満たされることはありません。
1%の人は「今の瞬間」から幸せを感じることができます。すでに、満たされている。だから、夢も希望も持つ必要がありません。
幸せは、頑張った結果として手に入るものではありません。「必要なものは、すでに、すべていただいている」ことに気がつき、そのことに「ありがとう」と感謝できれば、神様が味方をし、夢も希望も持たなくても、幸せを感じることができるのです。いかがでしたか。
このエピソードを読ませて頂き、1回目も胸が詰まりましたが、今日また改めて読ませて頂いて、場面が想像できるんです。
私が小学校教員時代もそう言うことはありました。やっぱり子どもの中には優しい思いやりのある子、学校の勉強ができるが全てはないです。
学校の勉強ができるは暗記力が勝負の時代でした。ですが、子どもたちの中では暗記が苦手でも心の優しい子、暗記が苦手でもお絵かきのうまい子、暗記が苦手でも歌のうまい子、暗記が苦手でもスポーツ万能の子、みんなそれぞれいろんな個性を持っていて、みんなそれぞれ違う魅力を持っていました。
何を持って一番なのか?
何を持って賢いのか?
何を持って優秀なのか?
子どもの教育に携わらせて頂いて、落ちこぼれを絶対に作らないと決めて、授業45分でわからない子どもたちを放課後に残して勉強教え、それでも理解できなかったら、毎日家庭訪問しながら勉強を教えて、テストは100点満点取るまでやったら、みんな100点満点取りました。
時間がかかる子もたくさんいます。飲み込みが早いか遅いかだけで、あいつは優秀だ!あいつはダメな子!あの子は立派!あの子はダメ!
そうやって、レッテルを貼られるのはどうなのかなと言うことも含め、一生懸命頑張ってきた教員時代を思い出させて頂きました。
社会人教育の分野に携わって、10年間一番担当したのは、成績・数字が低迷している営業の方々の研修です。
トップセールスプログラムと題して行ったものの、結果・成果を出せてない営業は研修に来たとしてもみんな暗い、みんなしんどい顔してます。
そんな中で、いかにすれば結果を出すことができるのか。心を変えることはできない、人がら人間性を変えることはできない。ですが、あり方を変える、見た目の印象力を変える、話し方の技術、応酬話法のあり方を勉強する、名刺交換のあり方ひとつ、礼儀、礼節、あいさつひとつに、いかに相手に与える印象があるのかって言うことを、自分が本気で感じ取った人はぐんぐん成長していきました。そして、結果・成果を出すことができました。
頑固な人は変わりません。
素直そうに見えて頑固な人は変わりません。
見た目が横柄であったとしても、真に素直な人は変化します。
なぜか?
気付きを得るからです。
その人が変わらないのは、一見素直そうに見えて、究極の頑固さを持ってるかもしれません。
自分が変わらないのは、変わりたくないからです。
今回このお話を読ませて頂き、改めて本当の素直さとは何か?
感謝の心のない人は、最後は足元を救われます。
本当の意味での感謝とは何なのか?
深い意味での感謝は「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」を声に出せばいいのか?それだけではないんです。
それだけではない!
今回のこのお話はありがとうの神様、小林正観さんの書籍からのお話ですが、この話は深いんです。やることやらないで、ある意味、手を合わせるだけでうまくいくのか!そんなわけはないです。
自分がこれまでを反省し、これでいいのか?って言うことを何度も何度も振り返りながら、今日、自分があるのは、支えてくれた人のおかげだと。裏舞台で支えてくれてる人のおかげ。
自分がこうやって仕事ができるのは、〇〇さんの存在があるからこそ。
経営者として社長を務められるのは、社長を支えてくれているナンバー2のおかげ、管理者のおかげ、リーダーのおかげ、社員のおかげ、それを心底感じた時に、自然に涙があふれるのではないでしょうか。