以前も一度Voicyにて、私が非常に感動した 徳永先生のお話 をさせて頂きましたが、今回、 人間学を学ぶ月刊誌[致知] の中で特集 「わが人生の詩」 このタイトルの中に実はですね「ハガキ道に生きる」追悼・特別講話、酒田道信先生(ハガキ道伝道者)の記事が載ってたんです。 で今日はですね、もうこの記事の中にある坂田道信先生のお言葉の中で、徳永康起の話が出てまして、ここは改めて読ませて頂きましたが、やっぱりもう1回読みたいなと思って、本日はご紹介ができればなと思います。 記事の途中から読ませて頂きます。 ぜひこの続きは 人間学を学ぶ月刊誌[致知] さん、定期購読をしていただいて学びを深めていただければなと思います。 それではチャプターを分けてお届けさせて頂きます。 徳永康起先生にまつわるお話です。 徳永先生は35歳の時に、熊本を始まって以来の若さで校長になった人です。 けれども5年間校長を務めた後で「子供たちと直接関わりたい」と言って自分から、平の教員になって、どの先生も行きたがらなかった過疎の町の分校に行きました。 徳永先生が教壇に立っていたのは終戦前後でした。 当時は昼飯の時間になったら、歯が抜けるように子供が教室からいなくなる。昼飯さえ持って来られない貧しい子がたくさんあったんだよな、 そこで徳永先生は、昼飯の時間になったら真っ先に校庭に飛び出して、昼飯を持って来られない子たちと一緒に、昼飯より楽しい遊びをしていた。 徳永先生と言う人はそんな先生だったんです。 徳永先生に導かれた子供たち ある日徳永先生が運動場に出ると、相手に馬乗りになって殴ろうとしている子がいました。柴藤君と言う少年でした。 柴藤君は家が貧しくて、自分も働かないと食べていけないから、なかなか学校に行けなくって成績が悪い。乞食のような格好していて、皆から馬鹿にされて腹を立てたんです。 慌てて喧嘩を止めた徳永先生は、泣きじゃくる柴藤君を懸命になだめて、その晩は宿直室に呼んで親代わりに抱いて寝てあげるんだよ、 徳永先生のおかげで立ち直った柴藤君は戦争を生き延び、一生懸命働いて立派に成功します。そして「私が今日あるのは小学校4年生の時、徳永康起と言う先生に抱いて寝て頂いたのが出発点です。」と言うて徳永先生の消息を求め、32年ぶりに再会を果たすんです。 それからお母さんが妻のおる立派な人と恋愛し...
毎週水曜日は、リスナーの皆様からの質問にお答えするコーナーです。 仕事のことや、人生のことで 知りたいこと、悩んでいること お寄せいただいたご質問に、私の考えでお答えさせていただきます。 あくまでも、一つのものの見方、考え方の参考になれば幸せです。 さて、今日はどんな質問が届いてるでしょうか? ちょっと見てまいります。 お待ちください。 ペンネーム 、のんたん、女性からです 質問内容: 朝倉先生、こんにちは。 職場であった事です。朝倉先生のお考えを知りたくてご質問させてください。 ビジネスマナーの中の「多様性」についてです。 私は今生薬ではありますが製薬製造会社に勤めております。 我が社は新入社員教育時に、本社教育として様々な教育の中のひとつとして、ビジネスマナーの中で髪の色についても、色ナンバーを提示しながら教育を行っています。ここまで行うのは、主に営業職があるからだと理解しております。 その後、実際に勤務する各拠点で同じように、おさらいの意味でビジネスマナー教育はしています。(総務課教育担当者に確認) 今回2年前に入社された製造部20代前半女性が、5月連休明けから、突然金髪👱で出社しております。 総務課の教育担当者も認知しておりますが、「困ったものだ」で終わり、本人への注意には至りませんでした。 以前品質管理部所属の方は同様な状態の時は直属の上司がお話しされ、少し栗色気味になりました。 今なお金髪の製造部の方の上司は、「今は多様性の時代だから、そこまで言わなくても良いと思う。仕事は真面目で前向きによくやる子なのだから。製造部であり、社外の方との関わりがないところだし、髪色で仕事の仕方が変わるわけではない。あまり厳しすぎると働き手がいなくなるよ」という意見でした。 確かに、仕事を真面目に前向きに行っていれば、髪の色は問題ない!ということも理解できる部分ではありますが。 社規で決められてるものではなく、あくまでビジネスマナーとしての教育。という意見でしたが。 私は、古い考え方なのでしょうか?表舞台に立たない製造だから、多様性の時代だから、ビジネスマナーでの教育に沿わなくても良いという考えには同意できない自分がいます。 製造であろうと外部の方と接する部署であろうと会社の社員は同じだと考えます。 「多様性」の使い方も受け取り方も違うように思えるのです。 とは...