こんな物語をご存知でしょうか。旧ソ連の構成国であった ウズベキスタン という国があります。中央アジアにある小さな国です。 その首都、タシュケント市に ナボイ劇場(ウズベク語: Navoiy teatri) という市民に親しまれているナボイ劇場があります。この劇場は私たち日本人が多いに関係しているのです。 第2次世界大戦で日本が敗れ、満州、今の中国で捕虜となった日本兵はシベリアに抑留され、森林伐採や鉄道敷設などに強制労働を命じられ、厳しい日々を送りました。 そのうち一部の日本兵が、戦争で工事が中断していたナボイ劇場の完成を命じられました。工事を命じられたのは500名ほどの日本兵でした。その指揮をとる隊長は24歳の永田大尉(永田行夫さん)でした。 劇場完成の目を受けた永田大尉が考えたのは、 ・隊員たち全員を無事に日本に帰国させること。 ・ナボイ劇場の工事をするにあたり、捕虜の手抜き工事だと言われないだけのものにすること。 ・さらに日本人は流石であると尊敬されるような立派な建物にすること。 工事に携わる兵たちにもそのことを伝えました。 しかし極寒の地で、十分な暖房もなく食事も満足に与えられず、体調を崩す者も少なくありませんでした。このような劣悪な環境にあっても、決して手を抜かず、ナボイ劇場を完成に向けて全力を尽くしている捕虜の日本人の姿を見て、ウズベキスタンの人は次第に尊敬の眼差しを向けるようになりました。 そっと食事を差し入れすることもあったということです。地元の子供たちがパンを差し入れてくれた際には、後日差し入れしてくれた場所に、日本人が木で作った玩具おもちゃがお礼の意味で置かれてあったと言います。 日本人の活躍もあり、ナボイ劇場は2年の歳月を費やして完成しました。ほとんどの日本人は永田大尉の願ったように無事に帰国することができました。 それから19年後の1966年、タシュケント市は直下型の大地震に襲われました。町がほぼ全壊する規模の大惨事でした。 しかし、その中でナボイ劇場だけは壊れることもなく、瓦礫だらけの街の中でスックとその偉容を示し、被災者の避難所として大きな役割を果たしたのです。 また他にも壊れなかった建物がありましたが、いずれも日本人捕虜が手掛けたものでした。大地震にも耐えたナボイ劇場のエピソードは日本人の技術力の高さや、どんな状況にあっても決して手を抜か
あまり マイナスの話はしたくない私ではありますが、これはどうしてもシェアしておきたいなと思う事柄がありました。Voicyリスナーの皆様にお伝えさせてください。 10時30分ラストオーダーのお寿司屋さんに入った時のことです。 時間は10時10分、夜の10時10分。 そのタイミングに、ほんの少しだけビールを飲んでおつまみを頼んで、そして少しだけお寿司食べたいなと思って入りました。 「ラストオーダー10時半ですがよろしいですか?」 「はい、大丈夫です」 カウンター席に座らせていただきました。そしてビールを1本頼んで、おつまみを取って、そしてお寿司を食べて、気持ちよく最後の1日を振り返りながら非常に一人時間を堪能してたタイミング。 そのタイミング、私はカウンター席にいたということもありまして、厨房の中にいらっしゃる板さんが片付けを始めました。ボックス席にはまだまだたくさんお客様がいらっしゃいました。そしてまた次から次へと海外のお客様が入って来られます。その度にお断りをされていました。 そんな中、板さんが片付けるお姿があまりにも衝撃的だったんです。本当にショーケースの中にあるネタを、きっとそのネタは明日のお寿司に使うネタです。そのお寿司のネタをバットの中にバサ!バサ!バサ!と、まるで物を捨てるようにバットの中に入れ、そして音をガチャガチャと鳴らしながら片付けをするその様。 その時私は最後の締めの巻物を食べてました。冷茶お願いしたところ「有料ですがいいですか?」って言われたので「はい、結構です」ということで、有料で冷茶を頼んで、そして最後の締めの巻物を食べてる時、食べ終わった後にその方が 「今度はゆっくり来てくださいね」 とおっしゃいました。 私はその時、食べ終わった後に一言だけ、本来言うべきことではなかったのかもしれませんが、どうしても気になったがゆえに、そこの胸元にあった名札を見ながら 「〇〇さん、最後の片付けがあまりにも乱暴でびっくりしました。〇〇社長、悲しまれます」って言って、そして席を立ち、21年間通っていたお店っていうこともあって、レジには昔馴染みのお姉さんがいらっしゃったがゆえに 「最後の後片付けがあまりにも乱暴すぎて残念でした」 ていうことは、言葉に出させていただきました。 その店ができる前から知っていて、その店ができてからも社員と共に何回も行き、たくさんのエピ