半世紀前に言えなかった一言を胸に 豊橋駅の近くに創業50年を超える、お好み焼き屋がある。 市内に2店舗ある老舗店だ。屋号を 伊勢路 という。そこのマスターと話がしたくて、数年前に店を訪れた時がある。 きちんとアイロンをかけられたカッターシャツに、蝶ネクタイをしてお好み焼きを焼いていたのは78歳、当時のマスター「堀米治」さんだ。 「昔はね、お好み焼きのことのことをこの辺では「ごっつう焼き」と言ったんです」 「ごちそう焼きが転化したものらしいんですけどね...」 「響きとしてはさげすむ感じでしたね....」 堀さんはそう言って笑った。 何だお前は、ごっつう焼き屋か!ただみたいなもので儲けようとしやがって!」 そんなことを言われたこともあるらしい。 「だからね、少しでもお好み焼きの地位を上げようと思いました。正装した職人が、技術を持って焼いた料理であることを示すために、ずっとこんな格好しているんですよ!」 そんな堀さんを知ったのは、地元ラジオ局の番組だった。 堀さんは毎年春、地元の福祉施設の子どもたちを招いて、お好み焼きや焼きそばをふるまっている。2店舗に数百人の子供が訪れるそうだ。昭和45年から50年以上、堀さんはそれを続けてきた。店舗を開放するのは春先だけだが、それとは別に屋台を引いて施設を訪れ、年に数回の大盤振る舞いを行っている。 なぜそのような活動を長年続けているのか?それを本人の口から聞いてみたくて、僕は店を訪れたのだ。 伊勢路の創業は昭和44年11月。開店して1ヶ月が経った頃、クリスマスイブに裏口から入ってくる親子3人がいた。 「あそこの裏口から入って来たんです。見るからに貧しい家族でした。当時、一番安かった天かすだけで焼く、120円のお好み焼きを3人で1つ頼みました」 「両親は箸を持っているんですけど、手をつけないんですね。小学校に上がったかどうかくらいの男の子がおいしそうに食べていました...」 おじさんが今でも後悔してることが、その後に起きた会計の時だった。 「お題は結構です」 その一言が言えなかったのだ。 その事を今でも悔やんでいると言う。 他のお客さんに聞かれたらまずいのではないか? そもそもそれはこの家族を侮辱することになるのではないか? そんな理由が頭に渦巻いて、まだ若かった堀さんはその一言が言えなかった。その遠い冬の日に思いを馳せると、今で
あまり マイナスの話はしたくない私ではありますが、これはどうしてもシェアしておきたいなと思う事柄がありました。Voicyリスナーの皆様にお伝えさせてください。 10時30分ラストオーダーのお寿司屋さんに入った時のことです。 時間は10時10分、夜の10時10分。 そのタイミングに、ほんの少しだけビールを飲んでおつまみを頼んで、そして少しだけお寿司食べたいなと思って入りました。 「ラストオーダー10時半ですがよろしいですか?」 「はい、大丈夫です」 カウンター席に座らせていただきました。そしてビールを1本頼んで、おつまみを取って、そしてお寿司を食べて、気持ちよく最後の1日を振り返りながら非常に一人時間を堪能してたタイミング。 そのタイミング、私はカウンター席にいたということもありまして、厨房の中にいらっしゃる板さんが片付けを始めました。ボックス席にはまだまだたくさんお客様がいらっしゃいました。そしてまた次から次へと海外のお客様が入って来られます。その度にお断りをされていました。 そんな中、板さんが片付けるお姿があまりにも衝撃的だったんです。本当にショーケースの中にあるネタを、きっとそのネタは明日のお寿司に使うネタです。そのお寿司のネタをバットの中にバサ!バサ!バサ!と、まるで物を捨てるようにバットの中に入れ、そして音をガチャガチャと鳴らしながら片付けをするその様。 その時私は最後の締めの巻物を食べてました。冷茶お願いしたところ「有料ですがいいですか?」って言われたので「はい、結構です」ということで、有料で冷茶を頼んで、そして最後の締めの巻物を食べてる時、食べ終わった後にその方が 「今度はゆっくり来てくださいね」 とおっしゃいました。 私はその時、食べ終わった後に一言だけ、本来言うべきことではなかったのかもしれませんが、どうしても気になったがゆえに、そこの胸元にあった名札を見ながら 「〇〇さん、最後の片付けがあまりにも乱暴でびっくりしました。〇〇社長、悲しまれます」って言って、そして席を立ち、21年間通っていたお店っていうこともあって、レジには昔馴染みのお姉さんがいらっしゃったがゆえに 「最後の後片付けがあまりにも乱暴すぎて残念でした」 ていうことは、言葉に出させていただきました。 その店ができる前から知っていて、その店ができてからも社員と共に何回も行き、たくさんのエピ