本日は、Voicyさんのハッシュタグ企画「#デジタルタトゥー」についてお話ができたらなと思います。
このデジタルタトゥー、今から10何年前でしょうか、ブログを全社員で始めた時、ブログを全社員で始めた時から、このデジタルタトゥーについてはすごくいろんなことを考えていたんですね。
初めてブログを始めたのが2005年のタイミングです。楽天ブログからスタートしました。
その後2008年アメブロに変えて、そこから10年半ブログを毎日書かせて頂きました。
2008年アメブロをスタートした時に、その時の社員12名でアメブロを始めたんですが、実際に継続をしているのが私、そしてあともう一人って言う感じでしたね。
そんな中、私が社員に伝えてたメッセージです。
このブログを始めて継続をするかしないか。
例えば始めたばいいけども、これが途中で終わっていたり、結果的には継続しなかったと言うことも含めて、全てが記録に残ると。
例えばアナログの時代であれば、何か自分が失敗をし、人からいろんな噂を立てられたとしても、人の噂も75日って言うぐらい、口コミで伝わる情報と言うのは結果的に、最終的には風化してしまうと言うことがこれが当たり前でしたね。
ところが、デジタル時代になるとそうはいかない。
自分が書き込んだ記事、そして自分がアップした情報、それも含めて、例えば自分がうっかり書いてしまったものも、全く悪気がなく人のことを誹謗中傷したり、自分の感情の赴くまま文章を書いたとしても「もうやめた!」って言って自分が消したとしても、検索したら引っかかる。だから気をつけなくてはならないと。
例えば「一生消えないよ!」って言う中で、自分の子供、孫、ひ孫世代も、うちのおばあちゃんってどう言う人だったんだろうと言うことを、数年、数十年経って検索した時に、全部記録として残ってしまうのが、まさにこれこそがSNSに投稿した記事であったり、映像であったり、画像であったり、うっかり自分と恋人とのあり方、そしてその時のラブラブの姿を映像にアップし、でもその人と結婚しないで他の人と結婚し、最終的に検索に引っかかって、その当時の元彼女、元彼とうっかりアップしたものが一生涯消せないって言うことも出てくるんだよ!って言うことを社員には伝えてました。
だから誹謗中傷めいたことであったり、心の不満を形に残すって言うことは、その時一瞬の感情はクリアできたとしても、消せない記録として残ってしまう。だからこそ言葉選び、選ぶ写真、そしてその時の表現含めて気をつけなくてはならないね!って言う話もさせて頂きました。
10年半毎日ブログを書いてる中には、やはり私の記事に対して反論、意見、そういったものも確かにありました。ですが反論もある意味読んでくれてる言葉であって、読んでくださるからこそ「それは違う!」って言う否定があるんではないかと言うことも含め
「率直なご意見、感謝申し上げます。いろんなものの見方考え方があると言うことに気づかせてもらった...」って言うことも含め、頂いたコメントは100%返信はさせて頂きました。それをやることによって、炎上することが実はなかったんですね。
あのバズるって言うんでしょうかね、自分が書いた記事がものすごくSNSで拡散されたり、そんなことも一度もなく、いやこの記事は周りの人に読んでもらいたいなと思っても、なかなかそう簡単にヒットすることはないんですが、それでもブログを2005年からスタートしてるわけですから、なんだかんだ言って18年前からデジタルタトゥーは残してるわけですよね。
そして、その私のブログ記事を見て、女性限定の営業塾「トップセールスレディ育成塾」に入塾してくださった塾生たちもたくさんいらっしゃいます。
当時は帝国ホテルタワーにオフィスを構えておりました。7年間、帝国ホテルタワーでお仕事をさせて頂き、帝国ホテルの中のシオンと言う研修会場で、女性限定の営業塾「トップセールスレディー育成塾」TSLを開講してました。
2020年2月10日に東京駅直結の丸ビルにオフィスを移し、そこでリアル版TSLを148期まで開催ができました。これも、どこで私を知ってくださったかって言うと、書籍を通して私の存在をしてくださった方々、そして毎日継続していたブログを通して、私の記事を見てくださって、塾を受けてくださった方々、企業研修をご導入くださったお客様の存在があります。
だからこそ、やはりインターネットSNSに記事を投稿することにも大きな意味がありました。そしてそのおかげで多くの方々とご縁がつながりました。
Twitterも始め、今はXですが、Twitterを始めた頃、これ面白いと言うことで、塾生の鎌倉幸子さんに講師を務めてもらって、その時Twitterの勉強会を塾生たちとともに行いました。
Facebookがスタートした時「Facebookを始めた方がいいよ!」って言うことで、最初はもう友達申請来た人たちに対しては全部承認してたら、あっと言う間に5000人を超えてしまって、そのあり方ではダメだと言うことも分かり、その後様々な改善も務めました。
いやー、勉強になりますね、本当に!
Facebookを投稿することによって巡り会えた奇跡、Twitterを始めたことによってご縁を頂いた奇跡、今はVoicyを通して繋がっている奇跡、いろんな出会いの形がありますが、デジタルタトゥーに関してもいい意味でのあり方と、そうではないあり方があると言うことも含め、投稿する記事、発する言葉、そして使っていい写真、そこも含めてより一層慎重に対応しないと、自分は「や〜めた!」って言って記事をアップしなかったとしても、検索したら全部出てくるんですね。
私のおばあちゃんは結果的に
「これは何月何日に終わったのね」
「最終的には3日で終わったのね」
「1週間で終わったのね」
「あっ!5年続けたのね」
「100日継続してるんだ」
「千日修行だ!」
って言う風な形のものも全部残ってるって言う事が、これがまたすごいことだと思いませんか。
信用力、信頼されるツールとして活用することもできれば、自分の信用・信頼を落とすことにつながることも実はできますね。
企業の採用面接の際も、実は直接質問をしないにしても、その方がどう言う方なのかって言うことをSNSで検索して、その検索に残っている引っかかる、記事を見て採用を決めるって言う事もお聞きしたことがあります。
だからこそ、投稿してる記事、友達の数、そしてどう言う人たちが反応してるのか、類は友を呼ぶ!その人と似ている人が友であると言うことも含め、全てがオープンに出てるんだって言うことも含めて、私たちは本当に自分の発する言葉にさらに自信を持ち、さらに責任を持って生きていくって言う、そう言う概念を心に落とし込みをしていきながら、これから先も継続をすることの重要性を考えていかなくてはなと言うことを改めて感じた本日です。
デジタルタトゥーに関してはいろんなものの見方考え方がありますが、うっかりと言うことの、この「うっかり!」によって、一生悔いることのないようにしてもらいたいなと思います。
誹謗中傷の記事は炎上したり、逆に面白おかしくそれに対して、ペンネームや匿名で「あーだ!」「こうだ!」書く人も世の中にはたくさんいますが、それが誰なのかってわかっていないだろうと思ってますが、分かりますからね。
それくらいやはり人の称賛承認はあれど、誹謗中傷めいたことであったり、自分が実名じゃないから何を書いてもいい!これは誰が書いてるのかって言うのも、全部紐付いてわかることなんです。
改めてデジタルタトゥーのことは考えなくてはなって。
だから「いい人は正直者がバカを見ない時代になりますよ!」と言うことを伝えてたのは本当の意味でどう言うことなのかって言うのは、今日お話をしてる意味にもつながります。
正直者が馬鹿を見ない時代
やっぱり悪は露呈する!
悪いことは全部バレるようになってるんです!
だから過去、私もいっぱい失敗しましたし、恥ずかしいこと、みっともないことをたくさんありすぎて、申し訳ないなと思うこともありますが、今は誠実に生きていきたいと思って、日々精進を重ねています。
それでも3階から飛び蹴りとか、回し蹴りとか、キックボクシングめいたことを言ってしまう自分もいて、心の声は大阪弁ですが、それを実際にやったら大変なことになりますよね。発する言葉、気をつけます。
今日は長くなりました。ベックさんよろしくお願いします。
そしていろんなものの見方考え方、価値観もあります。
それをオープンにするって言うことは、そこに共鳴してくださる人もいれば「そうではない!」って言って違う意見を持ってる方々もいらっしゃいます。
その意見をどのように受け止め表現していくのか。否定するのは簡単ですが「あっ!こう言うものの見方考え方の持ち主なのね」って言うことで、相手を承認することも実はできますね。
自分と違うから「それはダメだ!」と否定したり、そう言うものの見方考え方は間違ってるって言って、真っ向から相手を否定したり攻撃したり。いや〜そうではなく、いろんな価値観、いろんなものの見方考え方があるんだなと言うことも、今は思えるようになりましたね。
自分が若い時はやっぱり理解できなかったことが、
60代を超え「あ〜こう言う深い意味を持ってたんだな...」とか
言葉尻では厳しいことを言ってても、内側には深い愛があったんだな
一見、感じよく見える人がとてつもない悪であったり
いや、この人はずるいなと思うことがあったり
様々な人間模様を通して学びを頂いてる今日この頃です。
一見だけ、一面だけで人を判断してはならない。
その人がなぜその言葉を発してるのか?
なぜその態度をとるのか?
損得の計算が裏にあって、本当にずるいなと思うことも、やっぱり自分のためのことばっかりを考えて、小ずるい、こすい、せこいなと思うこともありながらも、
でもなぜそう言うマインドになってるのか?
なぜそうさせてしまったのか?
全ての要因は相手の責任ではなく、自分に問題があったのではないかなと考えると、怒りの感情は違う意味での学びに変わりますね。
なんとなくそんなことも思いました。