今日は私が心から感動した、心の底から感動した国と国との温かい絆のお話を、Voicyリスナーの皆様にお届けさせてください。 それは、100年以上の時を越えて、真心が巡り、命を救う恩返しとなって帰ってきた日本とトルコの物語です。 第1章 エルトゥールル号 奇跡の始まり 1890年、今から130年以上も前の明治時代。 オスマン帝国、今のトルコという国から日本との友好を願って、一隻の軍艦が日本を目指しました。 その名はエルトゥールル号。 大海原を越えて、はるばる地中海からアジアへ。 半年以上かけて日本へとたどり着いたその航海は、まさに国の誇りをかけた壮大な旅でした。 100名を超える乗組員たちは明治天皇にも拝謁し、日本の人々と心を通わせました。 しかし、その帰路、思いもよらぬ悲劇が待っていました。 1890年9月16日、和歌山県串本町の樫野崎沖で猛烈な台風に襲われ、船は岩礁に激突。 大波に飲まれ、真っ暗な夜の海へ沈んでいったのです。 エルトゥールル号 600人もの命のうち、生き残ったのはわずか69名。 絶望的な状況の中、地元の村人たちは、自分たちの命の危険を顧みず、荒れ狂う波に船を出し、必死に救助に向かいました。 その姿は、まさに人としての真心そのものでした。 冷たい海に飛び込み、濡れた体を抱きしめて温め、わずかな食料を分け合い、村の女性たちは泣きながら看病を続けたといいます。 「困っている人を見捨てることなんてできない」 それが日本人の魂でした。 当時の串本の人々の行動は、今でもトルコの教科書に載っています。 トルコの子どもたちは、こう学びます。 「日本という国には、遠い昔、私たちを命がけで助けてくれた人々がいた」 この出来事、エルトゥールル号遭難事件は、両国の絆を結ぶ奇跡の始まりとなりました。 第2章 100年後の恩返し、トルコ航空の奇跡 1985年。 時は流れ、約100年後の1985年。 中東ではイラン・イラク戦争が激化していました。 イランの首都テヘランには、200名を超える日本人が滞在していました。 そんなある日、イラクのフセイン大統領が宣言します。 「48時間以内に、テヘラン上空を飛ぶ全ての航空機を撃墜する」 世界中が凍りつきました。 各国はすぐに救出機を派遣しましたが、日本には自衛隊機を海外に出せる法律がありません。 日本人215名が取り残されてしまったのです...
毎週水曜日は、リスナーの皆様からの質問にお答えするコーナーです。 仕事のことや、人生のことで 知りたいこと、悩んでいること お寄せいただいたご質問に、私の考えでお答えさせていただきます。 あくまでも、一つのものの見方、考え方の参考になれば幸せです。 さて、今日はどんな質問が届いてるでしょうか? ちょっと見てまいります。 お待ちください。 ペンネーム 、のんたん、女性からです 質問内容: 朝倉先生、こんにちは。 職場であった事です。朝倉先生のお考えを知りたくてご質問させてください。 ビジネスマナーの中の「多様性」についてです。 私は今生薬ではありますが製薬製造会社に勤めております。 我が社は新入社員教育時に、本社教育として様々な教育の中のひとつとして、ビジネスマナーの中で髪の色についても、色ナンバーを提示しながら教育を行っています。ここまで行うのは、主に営業職があるからだと理解しております。 その後、実際に勤務する各拠点で同じように、おさらいの意味でビジネスマナー教育はしています。(総務課教育担当者に確認) 今回2年前に入社された製造部20代前半女性が、5月連休明けから、突然金髪👱で出社しております。 総務課の教育担当者も認知しておりますが、「困ったものだ」で終わり、本人への注意には至りませんでした。 以前品質管理部所属の方は同様な状態の時は直属の上司がお話しされ、少し栗色気味になりました。 今なお金髪の製造部の方の上司は、「今は多様性の時代だから、そこまで言わなくても良いと思う。仕事は真面目で前向きによくやる子なのだから。製造部であり、社外の方との関わりがないところだし、髪色で仕事の仕方が変わるわけではない。あまり厳しすぎると働き手がいなくなるよ」という意見でした。 確かに、仕事を真面目に前向きに行っていれば、髪の色は問題ない!ということも理解できる部分ではありますが。 社規で決められてるものではなく、あくまでビジネスマナーとしての教育。という意見でしたが。 私は、古い考え方なのでしょうか?表舞台に立たない製造だから、多様性の時代だから、ビジネスマナーでの教育に沿わなくても良いという考えには同意できない自分がいます。 製造であろうと外部の方と接する部署であろうと会社の社員は同じだと考えます。 「多様性」の使い方も受け取り方も違うように思えるのです。 とは...